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2004年09月28日

後藤明生「八月/愚者の時間」2 [ 後藤明生 ]

カバーを外した状態。泊押しされた背表紙が渋い。
後藤明生 「八月/愚者の時間」作品社

●引用が始まる

後半の短篇群は五つあり、一番最初の「愚者の時間」は、九州での友人Tから、筑前邪馬台国説を論じた本を送られたことから書き出されている。自分の筑前「帰省」と、友人Tの思い出などを語りながら、植民地暮らしの人間が筑前に馴染みきれないことを描いている。そのTもまた筑前に馴染みきれなかったひとりだったのだけれど、それが筑前邪馬台国説を語り出す、というその不思議さに戸惑う様子が印象的だ。自分もまた彼と同じかも知れない、いややはりちがう、という述懐がある。

「チクゼン仲間のTが、筑前邪馬台国説を夢中で喋っていることが不思議だったのである。いったい何が、彼を夢中にさせてしまったのだろう、と思った」P162
植民地帰りの人間が、筑前ことば(チクゼンをチクジェンとなまるのだが、それが難しいらしい)になじめず、バカにされるというエピソードは繰り返し出てくる。「チクゼン仲間」とは、土地の訛りを習得できなかった同士ということだ。これは「挾み撃ち」でも出てくるし、「四十歳のオブローモフ」でも出てくる。ここでは、そこに筑前の友人Tをおき、以降の朝倉連作の枕にしている。

次が「綾の鼓」と「恋木社(ゴウノキシャ)」の二篇で、タイトルは謡曲「綾鼓」にちなんでいる(実は、書かれた順を確認すると、「愚者の時間」はこの二篇のあとに書かれている。「恋木社」と「愚者の時間」は同じ月に出た雑誌にそれぞれ発表されたのだけれど、内容から見てそうだろうと思う)。

「恋木社」というのは、「綾鼓」のなかで、綾で張った鳴らない鼓を掛けた木のあとのことで、それが社になっているものらしい。二篇を通じて、朝倉にまつわる謡曲「綾鼓」が出て来る。もともと謡曲が出て来たのは、それが後藤明生の父親が「紅葉狩」と「鞍馬天狗」を子供時分の後藤に手解きしていた(というか、読書指導)ことが、彼の記憶に残っているからである。福岡に帰省した際、同級生の古賀と竹井という友人と一緒に宴会をやっているとき、とつぜん「綾鼓」が出て来た。古賀がいま始めたところなのだという。そしてそれが朝倉を舞台にしたものだと知る(「綾の鼓」の最後で、語り手が「綾鼓」を読み、なぜそれを自分に教えてくれなかったのか得心するシーンがあるのだが、何度読んでもどうして語り手が納得しているかが私にはわからない。何か致命的に読み落としていると思う)。

「恋木社」は後日譚というか、「綾の鼓」の続きで、古賀兄が死んだという話を受け、未亡人が東京でやっている酒場の話や、祖母の墓の在処を覚えていないと言うような話が出て来る。ちょっと興味を惹かれたのは、「綾鼓」を三島由紀夫が書いているという話。「近代能楽集」に入っているという。そしてその次に「雨月物語」の「吉備津の釜」の話が出て来る。両方とも復讐譚であるということで繋がっているふたつだけれど、それはまた後回しに。

この二篇は上記のように、福岡への帰省と謡曲「綾鼓」、そして自らの朝倉への微妙な関係とがテーマとなっていて、初期の「三部作」(と中公文庫の帯には書いてあった)「夢かたり」「行き帰り」「嘘のような日常」と似た作風に見える。決して帰属し得ない本籍地の不思議さが、ちがうものにスライドして語り手の目の前に現れる。ここでは父の謡曲がそうで、「鞍馬天狗」の本を買い求めた語り手は、「わたしは父の遺品を買ったような気がしたのである」と思う。

「ただ、いまここにこうして『鞍馬天狗』があることだけで充分だった。それだけで充分に不思議だった。そして、その不思議さだけが現実だったのである。」P172
父の記憶が、こうやって目の前の「鞍馬天狗」の本にスライドする。それが不思議に思えると語り手は考える。おそらく、この感覚がこの次から始まる「引用」を駆動しているのではないか。不思議、謎、疑問符に駆られて、語り手は不思議なものに引き寄せられるように何かを探し始める。

このあとに置かれている「針目城」「麻デ良城」(デは“低”の字のにんべんがない字)と続く短篇は、まるっきり上記のものと作風が変わってしまう。短篇の内容のほとんどが、何かを読むこと=探索に費やされるようになるのだ。

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2004年09月28日

後藤明生「八月/愚者の時間」 [ 後藤明生 ]


後藤明生 「八月/愚者の時間」作品社


●後藤明生の朝倉

この作品集は、前半と後半で分けられていて、それぞれ趣のちがう短篇が並べられているのが特色。前半には別荘のある追分や、ナナという飼い猫を扱った私小説的な短篇。ここのところ後半に集められている短篇を読み返していたのだけれど、こちらは、後藤明生の本籍地である九州福岡県の朝倉という場所について書かれた短篇といえる。

九州朝倉という土地は後藤明生の本籍地でありながら、後藤自身は一度もそこに住んだことがないという。後藤の父の地元だけれど、彼の両親は結婚後朝鮮の永興に渡り、そこで後藤は生まれた。本籍地は内地のままということが、なにやらよりどころともなっていたらしい。

「植民地暮らしの日本人にとって、本籍地は日本人であることの証明だった。その所番地は現住所以上のものだったと思う。わたしは朝倉の地をまだ見たことのない小学生だった。しかし目の前に朝鮮人がいる以上、自分が日本人であることを忘れることは出来なかった。そしてそのためには朝倉を忘れることは出来なかったのである」P179

敗戦後父の地元に帰らなかったのは、父規矩次と祖母が朝鮮の地で死んだため、母の地元に帰ってきたから。

そのせいか、後藤明生は父の故郷、朝倉に妙なこだわりを持っている。祖母の繰り返し教えたことによると、「秋の田のかりほの庵のとまをあらみわが衣手は露にぬれつつ」という百人一首に有名な天智天皇の歌だが、この「秋の田」とは父の生まれた土地、恵蘇宿のことだということで、それが後藤の記憶に強く残っている。恵蘇宿をなまってヨソンシュクというのがヨソンシュク風らしい。そして、それが後藤の本籍地だ。戸籍では「恵蘇宿」の部分を略して、福岡県朝倉町、となる。天智天皇の母、斉明天皇はその朝倉で死に、その死を悼んで天智天皇は木丸殿を建て、そこで歌ったのが上記の歌だと祖母は言ったそうだ。

後藤にとって九州朝倉の地、というのは、父、祖母、百人一首などがからまりあった、不思議な土地なのだ。この「不思議」というのは後藤明生のおそらくキモといっていい感覚で、ほとんどの作品が何かしら「不思議」さを核にしているんではないかと思う。特に彼の場所に対する感覚はこれに領されていると思われるほどだ。一時期の疑問符を多用した文体や、それ以降の「夢」という言葉が表題になっている作品がわかりやすい例だろう。これはまたあとで。

そこで広島へ行く用事ができたとき、その前に福岡朝倉まで行ってみようと思い立ち、そこへ行ってきたことを書いたのが、後半の短篇群だ。

これらの短篇を読み返したのは、後藤明生の後期の特徴的な小説手法のひとつ「引用」が大々的に開始される時期の作品だからだ。

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2004年09月24日

後藤明生「壁の中」・5 [ 後藤明生 ]


ドストエフスキーのペテルブルグ
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太宰治全集〈2〉
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●正宗白鳥と内村鑑三、そして西洋の三角関係

「壁の中」の終盤で、正宗白鳥が出てくる。正宗白鳥が出るあたりというのは、小説としてけりをつけるために超特急で議論が展開していくようになっていった部分で、かなり急いでいるのが目に見える(作中、対話相手の荷風に「新幹線式」か、などと言われている)。そこで出てくるのが、「壁の中」の中心的課題である「日本と西洋」の問題である。そこでとりあげられるのが、正宗白鳥とキリスト教との関係である。

正宗白鳥は若い頃内村鑑三に心酔し、十九歳でキリスト教に入信したが、四年の後棄教した。しかし、それから六十年ほど後、白鳥八十四歳の死の床で、突如キリスト教に回心したというのである。語り手は白鳥が書いたエッセイなどを引用し、白鳥のキリスト教には<殉教>が欠かせぬらしいことを追っていく。そして、結論のように、白鳥とキリスト教の関係を以下のようにまとめている。

「聖書とキリスト教を中に挟んで、ニキビ面の中学生が互いに競争している。聖書に対して果たしてどちらがよりマジメであり、より忠実であったか。どちらがより良心的で、真の愛を抱いておったか。白鳥センセイは、その秤として、<殉教>を挙げたわけです。
 要するに、白鳥センセイにとって<聖書><キリスト教>は、<舶来のマドンナ>なんですよ。そのマドンナに田舎のニキビ中学生が憧れ、こがれた。ところがマドンナ様は、どうやら<殉教>を強要されるらしい。しかし自分は、もともとホリュウの質だ。子供の時分から胃腸が弱い。とても<殉教>の苦難には耐え切れそうもない。さて、どうしたものか。仕方がない。マドンナ様への敬愛と思慕は絶ち難いが、ここは耐え難きを耐え、忍び難きを忍んで、イサギヨク諦めよう。しかしこれは決してマドンナ様への<裏切り>でもなければ<心変り>でもない。いや、反対に、マドンナ様への純粋な愛を守るためだ。そしてこの誠心はマドンナ様にいつかは通じるはずである。いや、もし仮に通じなくとも、時分は自己欺瞞の罪だけは犯したくない。と、まあ、これが白鳥センセイの<棄教><転向>の論理です。
 ところが、内村鑑三の存在が気になって仕方がない。(中略)あの男、<殉教>出来もしないくせに、マドンナ様への愛情をしゃあしゃあとまくしたてているとは、何たることか。何たる厚顔、何たる無恥ぞ! マドンナ様! 彼は嘘つき男です。あんな男の誓文、恋文を決して信用なさってはいけません。あの男はあなたのために<殉教>する勇気など本当は持っていないのです」(「壁の中」550〜551ページ)

後藤明生にかかると、内村鑑三と正宗白鳥がマドンナに憧れるニキビ面の中学生になってしまう。彼らのキリスト教経験については私は全く知らないので、この要約、喩えが果たしてどれほど正当なのかはわからない。しかし、これはかなり傑作な話じゃないだろうか。こういうユーモラスな視点というのがやはり後藤明生独特の魅力で、後半部分の妙な必死さが感じられる・感じさせる部分はもう、真骨頂だ。


●太宰とヘパイストスの哀れな滑稽さ

作中ではほかにも、こういう部分が多々存在する。醜男で知られているはずのギリシャ神話の神・ヘパイストス(になりきって語り手)が、なまじ美の女神アフロディテと結婚したために、妻の浮気に悩まされていることを、こんこんとゼウスに説き聞かせるところもそうだ。哀れな男の弁明である。少し脱線するが、この部分はこのあとに「東洋の島国」の「太宰治という作家」が書いた「懶惰の歌留多」の話になってしまう。なぜかというと、この作にヘパイストスがローマ名であるところのヴァルカンが、美男子として出てくるからだ。

そして太宰の墓には若い女性が群がっているということを語ったあと、ヘパイストス風の語り手はこう語る。

「もし仮に、わたしが彼女たちの前に姿をあらわし、「私を信じなさい」といっても、彼女たちは信じない。あのヴァルカンは贋物です、本物はこの足の曲がった醜男の鍛冶屋なのですと、いくらわたしが繰り返しいったところで、彼女たちは信じますまい。だからこそ彼女たちは、ダザイの墓石のまわりに群がり、その彫まれた文字にサクランボを詰め込んでいるのでしょうから! つまり、彼女たちにとっては、すでにダザイがヴァルカン様なのです!」(「壁の中」267-268P)

醜男のはずのヘパイストスが、女性にもてる作家に美男子であると書かれた、というとても微妙な関係。ただ、ここでヘパイストス(風の語り手)は僻むわけではなく、地球上に美男子のヴァルカンを祀る国が一つくらいはあってもいい、ダザイにはむしろ感謝していると言ったりする。ただそれでも、やっぱり自分は不幸なのではないかとヘパイストスは考える。

ここのくだり、後藤明生のユーモラスな眼差しが典型的に現れている部分だと思う。哀れな男の滑稽さとでも言おうか。そういうものへの注視が、後藤明生のユーモアの一つだ。ヘパイストスのくだりを特に持ってきたのは、ここでは、ヘパイストスが自ら語る(のを装った語り手が語る)哀れな身の上話の途中で、とつぜんダザイの話が始まるというのは上記した通りだけれど、そこでダザイの「懶惰の歌留多」の話から、とつぜん、太宰の芥川賞落選話になるのである。つまり、哀れな男の身の上話に挾まれた、もうひとりの哀れな男のエピソード! 滑稽さ倍増計画である。

この哀れさと滑稽さというのが後藤明生の面白いところで、これがちょっと前にも書いた恥辱と自意識のテーマに繋がっている。恥辱と自意識、または「汚辱にまみれた自意識」、これが「壁の中」前半のライトモチーフになっているというのも書いた。この自意識を滑稽さとともに描き出すこと。それがおそらくは後藤明生のひとつのテーマではあるだろう。それはもちろん、ここでは触れないが「赤と黒の記憶」以来の、後藤明生自身の体験に根ざしてはいるのだろう。そして後藤は、その恥辱の自意識を方法的に喜劇化しようと試みた。

それがヘパイストスと太宰治である。さらにその方法の起源がゴーゴリであり、ドストエフスキーであり、カフカである。後藤明生のドストエフスキー論「ドストエフスキーのペテルブルグ」は、「壁の中」で扱っているテーマを論文、エッセイの形で書いていて、非常に参考になるのだが、そこには以下のように書かれている。

「(ゴーゴリ『外套』では)もちろん「語る」のは九等官自身ではない。いわゆる「内面」のモノローグもない。彼はただ、「他者の言葉」によって外部から「語られる」存在であって、彼自身の言葉をほとんど全面的に放棄している。あるいは、掠奪されている、といってもよいが、とにかく、彼の「自意識」は空洞である。もちろん、その空洞は、作者ゴーゴリがそれを無視したためであるが、おそらくドストエフスキーは、その空洞を言葉で埋め尽くそうとしたのである。
 自分の言葉を放棄した、あるいは掠奪された九等官に、喋って喋って喋るまくらせること。『外套』の主人公の、無視され空洞化された自意識をあぶり出し、中年の孤独な万年九等官を「自尊心」と「屈辱感」との分裂病患者に異化すること。これがドストエフスキーの『外套』に対する批評であり、「外套」の「読み換え」であり、そのパロディー化の基本ではないかと思う」(「ドストエフスキーのペテルブルグ」59-60P)

ここでは「中年の孤独な万年九等官」となっている(「貧しき人びと」の主人公)が、これはそのまま「地下生活者の手記」にあてはまる。ここで言う異化とは、そのまま喜劇化と言い換えて構わないだろう。「地下生活者の手記」は、恥辱にまみれた自意識、または、恥辱によって生まれた自意識の絶え間ない循環構造を、言葉で埋め尽くし、喜劇化したといえる。おそらく、後藤明生の「壁の中」の目論見もこの路線に沿っている。


●自意識の喜劇化

しかし現代において後藤明生がそれを試みても「地下生活者の手記」のようにはならない。現代人の分裂というものが、ドストエフスキーの時代とはちがって、より複雑になってしまったからだ。そこで後藤明生は「父と子」、つまり、昭和現代人と明治人というかたちで、先代の「分裂」を明示することによって、現在の「分裂」に目を向けさせようとしている。「われは明治の児」の子なりけり、というわけだ。

荷風と白鳥は、分裂しながらも自らの分裂は言い立てず、相手(白鳥ならば内村鑑三)こそが分裂した、矛盾した人間だと言い立て、自らの純粋さを強弁するのである。しかし、その振る舞いこそが分裂したバラバラ人間のバラバラたるゆえんであると語り手は言う。

「もっとも、中には、最後まで自覚症状を持てないバラバラ人間もいるそうです。つまり自分がバラバラ人間であることを意識しないバラバラ人間ということになりますが、それは本当は意識出来ないのではなくて、ある種の強迫観念のせいらしいですね。
 簡単にいえば、それは<バラバラ>はよくない、という強迫観念があり、その裏返しとして、自分だけは<バラバラ>ではないというナルシズムに満足を求めるらしい」(「壁の中」563P)

似たような文言が「ドストエフスキーのペテルブルグ」にもあった。これはルネ・ジラール「地下室の批評家」の引用らしいが、以下である。

「ロマン主義者は自分自身の分裂を認めず、そして認めないことによって、それを悪化させる。彼は自分が完全に唯一不可分のものであると思いたがる。そこで、彼は二つに分かれた自己の存在から一つを選び出す。いわゆるロマン主義の時代では、それは一般に理想的な崇高な半身であるが、今日ではむしろ卑小な半身である。そして彼はこの半身を自己全体として通用させようと努める。自尊心は自分の周囲に現実全体を集め、統一できることを証明しようとする」(104P)

そういったロマン主義を批判し、ナルシズムを挫折させることが、後藤明生の試みの一つだと思う。前半部分の日常描写でも、自分自身を滑稽なものと見る眼差しが働いている。その眼差しがこの小説の方法を要請するのである。「壁の中」の小説形式のバラバラぶりは、つまりはそういうことだろうと思う。


●「壁の中」から

そして、明治の児の子の昭和現代人が「バラバラ人間」であり、われわれがさらにその彼らの子である以上、われわれも分裂した「バラバラ人間」であることから逃れられない。バラバラ人間とは、西洋と日本とに引き裂かれた近代知識人のことであり、また決して逃れることの出来ない恥辱としての自意識を持った、人間すべてのことだろう。そして、「壁の中」で作中の語り手が延々と正体不明の人物に手紙を書きつづっていたように、自意識が生んだ滑稽なる言葉を書き連ねるというわけだ。

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2004年09月21日

後藤明生「壁の中」・4 [ 後藤明生 ]

●近代文学の分裂

この小説(というより後藤明生)が一貫して喚起しようとしているのは、日本近代が「分裂」であったということである。ロシア文学それもドストエフスキーを特に持ち出して示そうとしているのは、ロシアの知識人がヨーロッパの知識を吸収したためにロシア的なモノから切り離されてしまった、バラバラな人間であったという認識である。
日本もまた、近代文学のはじまりにおいて、西洋と日本とのあいだに引き裂かれていたというのが、後藤明生の年来の論である。二葉亭四迷はロシア文学の翻訳をし、「浮雲」ではドストエフスキー、ゴンチャロフなどのロシア作家の文体、構成を踏襲している。漱石は英国、鴎外はドイツと、明治の錚々たる顔ぶれが、外国文学との密接な関係の元にその文学を立ち上げているというのは、すでに文学史的常識に属するだろう。

そして、その文脈に上記の荷風の姿を接続する。前半で執拗に追っていたドストエフスキー「地下生活者の手記」の主人公の姿に荷風を重ね合わせ、彼ら(地下室人も、漱石も鴎外も二葉亭も正宗白鳥も!)は近代という時代のなかで、西洋と日本とのあいだで引き裂かれたバラバラ人間だったのだ、と正宗白鳥の分類を用いて「総括」する。一応、これが「壁の中」という作品の「結末」である。ラスト数ページの展開である。

そうやって作中での議論を落とし所に落とし込んで、小説としては一応の終わりを迎えることになる。ただ、このラスト、いかにもとってつけた風である。というか、正宗白鳥が出て来たあたりからの展開はそれまでとはちがい、俄然急展開の様相を呈する。その後半五十ページくらいで西洋と日本との関係にまとまりをつけ、一気に総括してしまう。とってつけたような終わりといったが、脱線に脱線を重ねている小説のなかで、まともに結末をつけようとすればおそらく、どうやってもとってつけた風にならざるをえないのだろう。むしろ、この終わり方はこの小説がいつ終わってもいい作品、またはいつまでも終わらない小説であることを露わにしているのだと思う。

上記の「結末」にしても、これが果たして「結論」と呼べるかどうか。むしろ、これが出発点そのものではないか。「壁の中」の書き方とは、とりあえず上記のような結末=テーマを把持しつつ、それをいかに脱線し、迂回し、細部を浮かび上がらせるかということに賭けられてはいないか。上記のような結末くらい、後藤明生はエッセイのなかで何度も繰り返しており、読者としては耳にタコである。そして、それでも後藤明生の小説が面白いのは、それが小説として奇妙な運動を持っているからではないか。バラバラ人間をテーマにしたことは、「壁の中」というタイトルに率直に示されてもいる。これは「地下室」の読み替えであり、つまりは現代の言い換えでもある。バラバラ人間たる先祖を持つ昭和現代人はことごとく、そのバラバラを受け継いでおり、そのバラバラがもはやもう単純な西洋と日本という対立軸では捉えきれないほど分裂してしまったこと、それが「壁の中」というタイトルに示されている。


●方法論?

「壁の中」の構成は、現代という時代(全共闘の終焉を意識している)におけるバラバラ人間(語り手の三カ所の家)のあり方を、後藤明生式の日常描写で描き、ドストエフスキー「悪霊」や聖書などにおける「父と子」の関係を昭和現代人と明治人荷風との関係にスライドさせて形づくられている。

この小説はこのスライド、関係の変奏、脱線の仕方、連繋の異様なふくらみによって支えられている。たとえば本作の「意図」つまり、上記のごとき「日本近代文学の分裂」というようなテーマを、論文にして纏めることはそれほど難しくはないだろう。むしろ、作中の言葉を適宜拾えばそれなりのまとまりはできるだろうと思う。

しかし、この小説のもっとちがった企み、または読者つまり私がこれを面白いと思う理由はいったい何か、を問い始めると途端に難しくなる。テーマはむしろ簡潔である。では作品のこの異様な迷宮性は何か?

それをたとえば主題の単一性に小説を従属させないため、つまり、物語に単一の寓意、教訓を読みとるような単純化をできうる限り避けるため、というような説明も可能だろう。先日なくなった種村季弘氏が「笑い地獄」文庫版の解説に書いているように、後藤明生がロマン派的な作家(太宰、壇、牧野)に“逆接”していることは確かだ。「壁の中」の永井荷風もその逆接の素材として現れていると思う。後藤明生のパロディの仕方というのは、およそつねにそういった契機を持っている。自身が軍国少年であったことを回想しつつ、それを距離をとって眺めて滑稽なものとして描き出そうとする初期の傑作群(笑い地獄、挾み撃ち等)がそうであるように、ロマン的な視点をあえて措定し、それを客観視するという構造がよく用いられる。後藤明生の言い方でいえば、それが「楕円」の世界である。そして後藤明生はその楕円を構成するために、自身が良く批判する当の「円」を片方に付置するのではないか。

それを小説の方法論として用いると、「壁の中」になる。つまりこうだ。ある簡潔なテーマを立てておいて、それを横目に見ながら縦横無尽に飛び回る。棒にくくりつけられた羽虫みたいに飛び回る。その軌跡が「壁の中」という小説となる。ここでその棒とは、ロシアとスラブの分裂に悩まされたドストエフスキーと、そのドストエフスキーを読み日本と西洋とに引き裂かれた二葉亭にはじまる日本近代文学という問題を具体化した、語り手が起居している病院ビルの九階である。この九階をメインにしつつ、語り手は色んなところに飛び回る。大学、家、愛人の家、聖書を買いに銀座まで。そしてこの九階で永井荷風と対話する。

小説は単なる後藤明生のテーマの敷衍でもなく、絵解きでもない。論文でもないし、エッセイでもない。形式も文体も構成も違えながらいかにバラバラなものを抱え込むかという試みにも見える後藤明生の小説は、そうやってある種の単一性に回収されることに抗っていたといえる。

ただ、しかし、本当にそう要約してしまって良いものだろうか。単一性に回収されることへの抵抗、という言葉で後藤明生の脱線を説明できるものだろうか。それこそ安易な単純化だろう。後期の後藤明生の小説については、もうちょっと違う見方もあるのだが、まだ考えなくてはならない。

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2004年09月20日

後藤明生「壁の中」・3 [ 後藤明生 ]

●個人主義者荷風

やっと読み終わる。後半部分は永井荷風を架空の対談者に仕立てて、本人の前で永井荷風にまつわるさまざまな謎を追っていくという奇抜なもの。その荷風の謎、というのも多岐に渡り、かなり細かいところに踏み込んだ議論になっている。とはいっても議論が難解なわけではなくて、永井荷風を読み込んでいなくても追っていける。ただ、荷風がどういう作家なのかというちょっとした知識はあった方が良いかも知れない。まあ、私も「?東綺譚」くらいしか読んでいないのでたいしたことを知っているわけではない。それでも基本的に議論を追うのに苦労しないのは、その膨大な引用のせいもある。

後半部分で対話を行うのは前述の通り、荷風と、それまでの第一部で語り手であった「わたし」または「僕」である。この語り手の男は荷風と対話するために相当な準備をしているらしく、紙片を挟んだ「断腸亭日乗」全七巻をことあるごとにひっくり返して引用する。この「断腸亭日乗」が後半における主要テキストとなっていて、それに「墨東綺譚」や幾つもの小説を重ね合わせ、照らし合わせ、荷風という明治育ちの作家の輪郭を、後藤なりのやりかたで分析していく。

そこで重視されるのは荷風が昭和という時代の世相から距離をとり、しきりに批判していることだ。荷風というと、芸者街をうろつき、江戸の作家(為永春水?)らを愛し、フランス文学を愛し、おのれの趣味を堅持した孤高の作家というイメージがとりあえずある。その孤高の個人主義は、家族との関係をほとんど断ち切り、義絶した弟宅でなくなったという理由で母の葬儀にも参列しない、ときわめて徹底したものだった。と、ここで作中引用されている鮎川信夫の荷風評をちょっと長くなるが孫引きしてみる。

「当時の私が、荷風の文学、あるいはその人間にひかれるようになったのは、荷風が「家庭の幸福」から徹底的に疎外された文学者であったことが、おそらく作用しているであろうと思う。(中略)私が『墨東綺譚』を読んだ頃は、荷風の日記のことは知らなかった。しかし時勢に背反し孤立しても常に自己の道を歩きつづけようとする一徹な個人主義の耽美の精神は、その作品からでも充分に感得することができた。(中略)それは、個人主義的な強い自我の主張というよりは、享楽に徹底した人間の、のっぴきならない、生き方として、そこに在ったのである。
 荷風はそのような生き方を、永年にわたって、意識的につくり上げてきた。おそらく、それは「家庭の幸福」から疎外された文学者にしてはじめて可能な、といえるような性質のものであった。(中略)荷風が戦争期のナショナリズムと無縁でありえたのは、あるいはこのような家族に対する厳しい態度と軌を一にしているのではないか、と私は思う。日本人のナショナリズムは、一心同体的な家族意識とつながっていたから、それを断ち切れる人間でないかぎり、戦争期のナショナリズムと全く無縁の位置に立つことは容易ではなかったはずである」
 鮎川信夫「戦中〈荷風日記〉私観」

個人主義を貫くにはそういった断ち切り、断絶が必要であったという。金を貯め「偏奇館」を立ててそこにひきこもり、日本や時勢に唾を吐く。この姿、前に書いた、ドストエフスキー「地下生活者の手記」の地下室人の姿に重なってこないだろうか? 現実世界のリアリズムに唾を吐くために、六千ルーブリの金で地下室にひきこもった地下室人と。

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