2006年07月09日
日本の中世についての三冊 [ books ]
最近読んだ本がちょうどよく日本の中世について、宗教、政治、法それぞれの角度から見たものだったので、まとめて紹介。
●佐藤弘夫「神国日本」ちくま新書
![]() | 神国日本 佐藤 弘夫著 筑摩書房 (2006.4) 通常24時間以内に発送します。bk1で詳細を見る |
日本中世思想を専門とする著者による、古代から近代にかけての「神国」思想の変遷の歴史を概観する思想史。
古くは「日本書紀」「古事記」での神功皇后の新羅遠征の下りに見える「神国」が、時代ごとにいかに変容していったかをたどっていく。具体的には、昭和の「国体の本義」などがその「神国」概念の基礎に置く北畠親房の「神皇正統記」(ジンノウショウトウキ・atokで一発変換!)を読み直すことで、近現代のウルトラナショナリズムの旗印ともいえる「神国」が、じつは南北朝期、中世社会のなかでは、むしろ仏法という普遍を前提としたインターナショナリズムにつながるものであるという、一般通念を覆す結論を提示する。
この本の存在は以下のbk1でのブルース氏による書評で知ったのだけれど、なるほどとても面白い本だった。
「日本史上に大きな影響を及ぼした「神国日本」思想を斬新な切り口で考察!」
基本的な内容については上記リンク先を参照してほしい。本書のだいたいのアウトラインは押さえてあるので。
で、佐藤氏は中世の思想、とりわけ神仏の関係についての研究が専門であるらしく、本書での核心は、中世の神仏習合によって生まれた世界観にある。
通説では、仏の教えが効力を失い悪人が跳梁するという「末法」思想と、須弥山を中心とする仏教的世界観のなかでは日本など辺境の小島(辺土粟散)にすぎないという自己認識とが中世期の社会に広く共有されており、「神国」思想とは、そういった末法辺土の悪国であるという「仏教的劣等感」を「神道的優越感」によって克服するために説き起こされたもの、とされていた。
ここでは、神道と仏教とが相対立するものとして捉えられている。しかし、佐藤氏はこの二者は逆接するものではなく、順接するものとして捉え直す。つまり、末法辺土だけど神国、なのではなく、末法辺土だから神国である、と見る。つまり、末法辺土という自己認識こそが「神国」思想の根拠として存在すると論じる。
そこでキーになるのが中世の神仏習合の中核概念、本地垂迹説だ。それは日本にいる神々は、仏教での様々な仏が神の姿を借りて現れた権現であるという世界観だ。アマテラスの本地仏が大日如来であるとかいうのがそれで、ここで、神道と仏教とがひとつのものとして形成される。
佐藤氏は、「神道的優越感」の表れであるはずの「神国」を主張する「神皇正統記」に日本を末法辺土だとする記述があることを指摘する。それではこれまでの通説に従うなら矛盾としか考えられなくなる。そこで、神仏習合、本地垂迹説が意味を持ってくる。佐藤氏は中世での「神国」思想というのは、神仏習合的世界観のなかで、日本が末法辺土であるからこそ、仏が神の姿を借りて現れるのだ、という認識であったということを指摘する。
中世において広く共有されていた本地垂迹思想においては、神仏は基本的に同一の存在であり、そこでは「神国」と「仏国」とは排斥しあうものではないという。
| インドや中国が神国でなかったのは、仏が神以外の姿をとって現れたからだった。/現実のさまざまな事象の背後に普遍的な真理が実在することを説くこうした論理が、特定の国土・民族の選別と神秘化に本来なじまないものであることはいうまでもない。中世的な神国思想の基本的性格は、他国に対する日本の優越ではなく、その独自性の主張だったのである。 |
P196-197 |
本地垂迹思想を前提とした、仏と神との習合は、仏法という普遍性を獲得し、一国の絶対的優越を説くものでは全くなかった、というのが本書での重要なポイントだろう。しかし、中世的な世界観の後退にともない、本地垂迹思想は「神国」概念の根拠ではなくなっていく。幕末の対外危機が国家意識の高まりを生み、朝廷政権がそのバックボーンとして天皇を担ぎ上げ、神の末裔としての天皇が、神国の根拠となり、そこから仏教的影響が切り離されることになる。そして慶応四年神仏分離令が出され、それまでむしろ仏教こそが支配的だった日本の宗教体系が、一挙に神道色に染められることになる。
最初にあげた通説で、仏教と神道とが相対立するものであるという認識が前提となっていたけれど、おそらくそれは明治以降のきわめて近代的な観念なのではないかと思われる。本書で天皇すら、即位において仏教的な儀式(即位灌頂)をしていたことが指摘されたように、中世において神仏の境界はかなり曖昧だったようだ。
「神国」概念の洗い直しとして興味深いのとともに、中世期の神仏習合を知る上でもかなり面白い本だと思う。この著者のほかの本もそのうち読んでみる予定。
●今谷明「室町の王権」中公新書
![]() | 室町の王権 今谷 明著 中央公論新社 (1999.9) 通常2-3日以内に発送します。bk1で詳細を見る |
上記でリンクしたブルースさんの書評でも指摘されていたように、中世においては天皇は神孫として君臨したわけではなく、大寺院などとそれほど違わない存在となっていたという。
| 天皇はもはや国家そのものではなく、支配体制(荘園制支配)維持のために、国家を構成する諸権力によって祀り上げられた存在だった。より端的にいえば、中世の天皇は国家体制を維持するための非人格的な機関であり、手段にすぎなかった。 |
P178 |
この本では、天皇を廃絶し国王になろうとした足利義満の王権簒奪計画を叙述している。
元々、実権は武家が握っており、天皇は形式上将軍職を任命したりするという権威ではあったけれど、それはほとんど名目上のものだった。しかし、義満は、その形式においても自らが天皇よりも上に立とうとしたという。
本書では上述の叙任権をはじめ、祭祀権や元号の改元への関与といった国内の権限を掌握していくのとともに、明の冊幇体制にはいることで、「国王」位を対外的に認めさせるなどの方策が、義満の地道な王権の簒奪計画であった、と論じていく。
じっさい、祭祀や儀礼の場などで、天皇の権威がどんどん低下していき、朝廷の人間までもが天皇をないがしろにし、義満の方をばかり向くようになる過程などが語られていて、説得力がある。
「今谷明.権力から権威へ」
上記リンク先によると、この本のタイトルは本来、「室町の天皇」であり、王権簒奪は皇位簒奪でなければならないのに、出版社の自主規制で、著者の意図は通らなかったようだ。
上記ページの下の方にあるのだけれど、本書へのコメントで、義満がこれだけやっても天皇を廃絶できなかった、ということは、天皇の権威がいくら下がっても大丈夫なほど天皇制という制度(レジーム)が強靱である証拠、というのがある。権力がなくても、権威がなくても、天皇制は存続してきたということだろうけれど、では、なぜ制度としてそれほど強いのか、という問題がある。まあ、これこそ日本史最大の謎、という訳なんだろう。この本を読んでみると、なんとなく、自己の権力の正当化を自身によってではなく、天皇という機関に担保させるという、権力と権威の分立がいい感じに相互依存してたんかななんて思いますね。
●清水克行「喧嘩両成敗の誕生」講談社選書メチエ
![]() | 喧嘩両成敗の誕生 清水 克行著 講談社 (2006.2) 通常24時間以内に発送します。bk1で詳細を見る |
これもまたブルースさんの書評で興味を持った本。ブルースさん、ありがとう! 面白いよ、これ!
簡潔に紹介しているブルースさんの書評。
「喧嘩両成敗という独特な法が生まれた背景を探る興味尽きない歴史書」
これ、裏表紙の煽り文が秀逸。
「中世、日本人はキレやすかった!」
と、冒頭で、金閣寺と北野天満宮との間で、数人の死人を出し、時の権力者足利義教が出張ってくるほどの大乱闘事件が発生したことを述べるのだけれど、その原因は立小便を笑われたことだという。そのほかにも奈良の町の人混みで遊女に「比興の事」を笑われた田舎人が、その遊女はおろか遊女屋の主人まで殺害し、切腹して果てたうえ、その田舎人の支援者たちが奈良に大挙し、かなりの死傷者を出すほどの騒ぎになったことなどを挙げていく。著者はここに室町人の強烈な名誉意識と自尊心を見て取っている。
また、すぐ切れるというわけではないとして、敵討ちの事例にも触れている。幕府が定めた御成敗式目では禁止されていたが、一般的には容認されていた、むしろ、敵討ちを主張することで罪が軽減される傾向すらあったことが指摘される。そして著者は当時の法慣習について、こう述べている。
| 中世社会には武家法や公家法・本所法といった公権力が定める法が存在したが、その一方でそれらとは別次元で村落や地域社会や職人集団内で通用する「傍例」や「先例」「世間の習い」と呼ばれるような法慣習がより広い裾野をもって存在していた。しかも、それらの法慣習には互いに相反する内容が複数並存していることも珍しいことではなく、人々は訴訟になると、そのなかからみずからに都合のよい法理を持ち出して、自分の正当性を主張し、「〜と号する」のを常としていた。現代の「法治国家」から見ればアナーキーというほかない実態であるが、そうした多元的な法慣習が、公権力の定める制定法よりも遙かに重視されていたのが、この時代の大きな特徴だったのである。 |
P40 |
著者はさらに、当時のさまざまな紛争の事例を挙げていく。
これはいまでも了解しうることだけれど、当時、遺言を残して切腹することが究極の復讐法として採用されることがあったということが語られている。不満、遺恨の表現手法の一つとして、切腹がしばしば行われていたという。ここに、著者は、強い名誉と自尊心とがあることを指摘する。誇りや名誉は命より重いわけだ。
この誇り、名誉意識が、集団同士の争いが激化する原因としても考えられる。室町時代にしばしば起こった、集団同士の激しい復讐合戦は、このことと関連している。
著者はほかにも、当時の興味深い慣習をいくつも例示している。
ひとつは落ち武者狩りで、敗走した武将が荘民などによって略奪、殺害されることがしばしば起こっていた。室町幕府最後の将軍足利義昭も信長に京都を追放されてから、落ち武者狩りにあい、没落していった。この落ち武者狩り、当時において白昼堂々と、当然の行為として行われていたのだと、著者は指摘する。室町幕府の側も、比叡山の僧を見つけたら具足などをはぎ取るべし、などと近隣の村々に指示し、落ち武者狩りの慣習を利用して、敵対者の一掃を図ったりしていた。明智光秀が秀吉に敗れたとき、近隣の村人による落ち武者狩りにあい、命を落としたときも、裏には村々への落ち武者狩り指令のようなものが出されていたという。
ほかにも、都において大名が失脚したりしたとき、その屋敷に人々が押し入って金品を強奪すると言うことが、しばしば起こった。ひどいときには、失脚間近の大名の屋敷に、待ちきれずに白昼堂々と押し入ってしまうことすらあったという。さらに、当時の流罪というのが、流刑地までのあいだに、かなりの場合途中で殺害されてしまうことは常識であり、流罪というのが、権力自らが刑を下さないだけでほぼ死刑と同義であったということなどが語られる。
著者はこうした興味深い事例などを挙げつつ、室町幕府が、制定法による「公刑」を実現しようとしていたのと平行して、当時の自力救済の「私刑」も取り込まざるを得なかったことを示す。
中世社会においては、こうした形で法治主義とは異なる仕方で動いていた。
著者は喧嘩両成敗の下地になるものとして、次のような例を紹介している。
ある酒屋が、妻と密会していた男を「妻敵討ち」として殺害する事件が起こった。そのとき、その密会していた男というのが、赤松という侍所の被官であった。赤松が部下を殺されたことで、その酒屋に対する復讐をしようとしたが、その酒屋にも幕府重臣がバックについており、復讐を断念せざるを得なかった。しかし、収まらない赤松氏は室町殿、足利義政に訴え出ることになった。そこで採用されたのが以下のような判例だった。
| ――妻敵を殺害したうえで、一緒に自分の妻も殺害してしまえば被害の程度は同等となる。それ以外(赤松の言うように)本夫自身を死罪にして被害の程度を同等とするというのは、道理にはずれている。」 彼ら法曹官僚たちは、けっきょく、当時の「常識」を曲げて妻敵討をした者を処罰することはできなかった。しかし、かといって「殺害の科」を見逃し、被害者側の感情を無視することは、もうひとつの「常識」からもできなかった。結果、彼らが独創したのは、妻敵討をした者は一緒に姦通をした自分の妻も殺害するべきだ、そうすれば加害者側も一人の愛する人間を失ったことになり、被害の程度は対等になる、という驚くべきものだった。 なんといい加減な、そして、なんと女性の生命を軽んじた意見か。私たちなら唖然となるこの法曹官僚たちの「意見」は」、しかし意外にも、当事者たちには抵抗なく受け入れられるものだった。この判決に赤松側は納得し矛を収め、酒屋側は後日、妻を処刑してしまい、この事件は案外あっさりと一件落着となっている。それどころか、この幕府官僚たちの「意見」は、その後の類似事件を処理する際の「法式」として受け継がれ、なんと江戸幕府も三〇〇年間にわたり妻敵討に対する規範として、姦夫と姦婦二人の殺害を義務づけることになる。けっきょく、このときの室町幕府の判断は、形式上は明治時代になるまで、我が国で効力を持ち続けたのである。 |
P112-113 |
この認識は、加害側も被害側と同等のダメージを負うべき、として復讐の論理にもなったけれど、復讐の行き過ぎを戒めるものとしても機能していた。さらに、ハンムラビ法典での有名な「目には目を」というのが、最近の研究では「受けた損害以上の報復を相手に加えることを禁ずる意図のもとに定められたものである」とするのが通説である、と紹介し、このような同害報復原則が、過剰報復の抑止でもあったと著者は言う。
喧嘩両成敗法の基盤というのは以上のようなものととりあえずはいえる。これ以上はちょっと長くなりすぎるのでやめる。重要な示唆として、戦国時代の分国法のなかでの喧嘩両成敗法には、相手の攻撃に対しての復讐を抑止する意味があったという指摘がある。復讐の連鎖を止めることが、この法の意義の一つだった。
本書は喧嘩両成敗そのものの研究と言うよりは、中世社会におけるさまざまな紛争とその解決手段がいかなるものであったかということを論じたもので、中世の奇妙な慣習の数々を実例を多数交えて解説していて、法の歴史としても、日本中世の社会状況の描写としても、非常に面白い。単一の法が支配する法治国家以前の社会で、いかに紛争当事者たちを納得させるか、という方策として、喧嘩両成敗法が民衆からも支持されていた、という指摘などは非常に興味深いものだ。当時の人々の名誉意識に照らして、どちらかが非とされることは、むしろさらなる紛争を生みかねなかったということだろう。当時としては合理的な暴力のコントロールだったんだろう。
しかし、喧嘩両成敗というと、「調和を重んじる日本人」などというイメージがついて回っているけれど、そうした形での「調和」は、なんらかの事件があったとき、被害者側にも落ち度があったはずだ、という認識にすり替わることがある。著者もメディアの報道状況について危惧していて、喧嘩両成敗的な認識がいまでもそういう形で根付いているとすれば、その「負の遺産」はあまりに大きい、と述べている。本書にも、喧嘩を起こしたこと自体を「穢れ」として喧嘩両成敗的措置を下した例が紹介されていたが、この場合の「喧嘩両成敗」と「調和」というのは表裏一体のものだろう。
ひとつ、本題以外で面白かったのは、日本では当然のように行われている、交通事故での過失相殺というシステム、これは日本と制定当時(1882)はオーストリアにしかなかったかなり珍しい制度だそうだ。
2006年06月24日
パソコンが壊れたりして更新が滞りすぎていた間に読んだ本とか。 [ books ]
ところで、笙野頼子の「徹底抗戦! 文士の森」の記事に、小谷野敦様からのコメントをいただき、少々訂正しました。ブログの方でも私の記事にリンクしておられるので、当人に間違いないようです。
http://d.hatena.ne.jp/jun-jun1965/20050710
小谷野様による笙野批判ですが、上記記事のコメントでも書いたように私は双方の元記事を確認していません。そのうえで書きますが、小谷野様による反論のいくつかには理解できるものもあります(「聖母のいない国」の批判的書評を引用して小谷野批判をすることについての批判など)。しかし、「明らかに大衆作家なのに純文学作家として振舞っている宮本輝と高樹のぶ子」を笙野頼子が批判しなければならない理由がさっぱりわかりません。文学の基準の複数性を主張する笙野頼子が、上記の理由で作家を批判するとは思えません。小谷野様がそのようなことを主張しているのに、それを無視している、というのは笙野頼子がたんにそのふたりを批判する理由を持たないからだと思うのですが。
両氏が純文学全体に対する単純化したレッテル張りなどをしたというなら笙野頼子が二人を批判することも考えられますけれども、とりあえず私はそうした事実は知らないので、小谷野様による当該記述は、ただたんに小谷野様の批判基準を笙野頼子も当然採用しているべき、という無根拠な思いこみを前提にしたいいがかりに見えます。
それと、上記記事で私は「前、文學界の落語特集か何か(手元にないので曖昧ですみません)に小谷野様が落語を寄席などで直接聞かなくても論じることはできる、というような趣旨の文章を寄稿されていて、その最後に唐突に「アヴァンポップ」がどうとかいって、落語を知らずに日本文化を語るなというようなことを、揶揄したような調子で書いていたのを記憶しているのですが、ここでは笙野頼子を名を明示せずに批判していると取ってよろしいのでしょうか?」という疑問を提示したのですが、もうお読みになっていないらしく返事がありません。
まことに失礼だとは思いますが、ここは勝手に、小谷野様は、笙野の小説やエッセイに彼女が京都にいた頃寄席などに通っていたという記述や何代目かの桂春団冶のファンであるというような記述などの「ウラをとら」ずに、思いこみで笙野頼子を落語を知らないのだと批判したと思いこむことに致します。(調べてみたら私が読んだのは、文學界2005年9月号の「落語を聴かない者は日本文化を語るな」という記事だった模様。いまだ私は再読しておりませんのでこの記述は誤解に満ちたものである可能性があります)
では、本題。
●柄谷行人「世界共和国へ」岩波新書
![]() | 世界共和国へ 柄谷 行人著 岩波書店 (2006.4) 通常24時間以内に発送します。bk1で詳細を見る |
岩波新書リニューアルの第一号。近所の本屋でかなり早めに本が減っていったのを目にして、柄谷行人初の新書書き下ろし(たぶん)ということもあってか、かなり売れてるんだと思った。
私は柄谷の本というのは、「日本近代文学の起源」、「内省と遡行」(これはさっぱりわからなかった)、「反文学論」と、「増補漱石論集成」を拾い読みした程度で、最近の動向などさっぱり知らなかったのだけれど、この本はかなり面白かった。以前、萱野稔人の「国家とはなにか」について書いたけれど、あの本は暴力という観点から国家を分析したものだけれど、柄谷のは経済、つまり交換ということを起点にして、歴史的かつ理論的に近代国家形成の過程を追っていく。
以前kawakitaさんたちと、労働、交換といったことについて議論をしたけれど、(本ブログの2006年3月頃の記事を参照)そのときの関心と見事に重なるので、より面白く読めた。
明晰かつコンパクトにまとめられた近代国家形成の歴史として、非常に興味深い本。
ただ、タイトルにある「世界共和国へ」という彼のプラン、武装を放棄する憲法九条を擁護し、国連のような国際組織に主権を委譲することで、国家間の敵対状態を解消する、というカントに基づくらしいプランは、やはりあまりかなえられそうなものには思えない。新聞でのこの本の広告で、柄谷行人は、絶望することはない、進むべき道は見えているのだから、というようなことを語っていたけれど、採用すべきプランがそれしかない、ということをかなり説得的に語るこの本を読むと、そのプランの実現可能性を考え落胆するしかないような気がしてしまう。
●仲正昌樹「分かりやすさの罠」ちくま新書
![]() | 「分かりやすさ」の罠 仲正 昌樹著 筑摩書房 (2006.5) 通常24時間以内に発送します。bk1で詳細を見る |
アイロニーという概念をめぐって、哲学の歴史やロマン派の批評理論を紹介するところなどは非常に勉強になる。思想系だとたいがいフランスに偏るものだけれど、これはドイツ系の議論を重点的に扱っていて、面白い。これまで仲正氏のものは新書ばかり読んでいて、きちんとした理論的な本も読んでみようかなと思って探してみると、どれもかなり高いものばかりで諦める。
理論的な本論の部分については確かに面白いのだけれど、それ以外の部分には結構疑問符が付く内容ではある。右と左の二項対立について語るのはいいのだけれど、そこで批判的に例示されるのが左のみであることとか、本文中での自分の言説に対する批判への過剰な攻撃性など、どうにも妙だ。というか、新書ではすでに2ちゃんねるのことはなんの説明もなく使っていいものになったようだ。
以下、この本の「語法」について批判的に私の感じたことを書く。書いていてかなり批判的になってしまったけれども、この本の理論的な部分は整理されていて明晰で面白いので、興味のある人はどうぞ。少なくとも、後述する北田暁大の本よりは私には楽しめた。
単純化して要約すると、ある人の言説がその形式において語っている内容を裏切っているというアイロニーを批判するのが、自分の批評なのだと説明する本なのだけれど、この本に通底する左翼批判を読むと、著者自身が右左の二項対立に嵌っているではないかと思えてしまう。
しかし、だからといって右に利する言論だと批判するのは狭量というもので、左翼、リベラルにとっての口に苦い良薬として考えればいいとは思う。それでも、座談会に出席したときは変なことはいわなかったけれど、雑誌になったときにそのときいわなかったことを付け加えられたのであたかも自分が八木秀次の主張に同意したようになっている、というようなことを仲正氏はどこかのブログ述べていたけれど、その八木を本書ではほとんど批判していないというのはどうなのか。生き生きしている左翼は批判するけど、生き生きしている右翼は論外、ということなのだろうか。八木こそ、「生き生き」とジェンダーフリーをバッシングしている人に見えるのだけれど。
それとは別に、ここで仲正氏が主張しているアイロニー的な批評、というのは一種の語法批判だと言っていいのではないかと思う。このやり方の最大の問題点は、中心的な議題についての議論を棚上げにして語ることが可能だと言うことだ。仲正氏は、分析対象の「直接的意図」を「必ずしも真に受けなくていい」ことが、アイロニー的批評の「メリット」だと書いている。
しかし、これは誰にでも何がしかを語ることを可能にさせる方法でもある。私は、そうした形でなされる議論は正直不毛でしかないと思う。何について論じられているのか、ということを棚上げにして論じ方だけを問題にするやり方は、一定の効果はあってもそれ以上のものではないと思う。何をどう論じるのかとか、その事例を語るのにその語り口は有効かどうか、といった視点から語るならまだしも、論じられている当の主題を無視することを「メリット」と語ってしまうような批評的態度なるものには、とうてい賛同できない。それって結局2ちゃんの煽り合いみたいなものにしかならんじゃろ。
また、この本自体が、右左の語り方だけを問題にしてしまっているという点で、仲正氏が批判しているはずの右左の対立軸を強化しているようにも見える。
ここで思い出すのが高橋秀実の「からくり民主主義」だ。この本ではメディアによる二項対立に疑問を持った著者が、その現場に赴くことで、メディアでなされる二項対立の虚構性を、具体的な事実の提示によって批判していく。実際の問題というのは、容易に右左の対立に回収されるようなものではないということを示すそのルポは、左右の二項対立を超えたところで問題を再設定すべき状況の存在を強く印象づけられた。
あ、ジェンダー関連で言えば、赤川学「子供が減って何が悪いか!」(ちくま新書)なども、アイロニー的批評でありつつ問題を具体的に再設定する優れた仕事だと思う。
これと対照的な例が内田樹で、彼はメディアやら本やらからの断片的な情報を元に、アクロバティックな仮説をぶちあげて物事を論じることがある。そしてしばしば語法をつつくことで仮説を立てることが多いのだけれど、そういった断片的な情報の語法批判、という手法がいかにでたらめな議論を導いてしまうのか、ということは以前にしつこく書いたので繰り返さない。内田氏については、仮にも学者なら、自分が何について語ることができ、何について語ることができないのか、という最低限の倫理くらいは持っていてほしいと思うだけだ。内田氏のように妄想で対象を論じたりしない分、仲正氏はまともだ。
内容にかんする吟味を欠いた語法批判というのは、内田樹的な何に対しても何かがいえてしまう、つまりは何の意味もない言論になりかねないのではないかと思う。
仲正氏は、対立軸の固定ぶりを批判するものの、その対立を生み出している当の論題(ジェンダーフリーなり新自由主義なり)について全く触れずに論を進めているせいで、それこそ傍観者が嫌味で口を突っ込んでいるだけのように見えてもおかしくないような議論をしているのではないか。そういった態度が「右傾化」と批判されたのであって、単に鼎談に出席しただけで、とか、左翼連中の語り口を批判しただけで、批判されたのではないんじゃないか。
私としては対立軸を構成する論題についてきちんと論じることで、その対立軸の無効性を証明するような議論をしてほしいのだけれど。
そもそも、アイロニー的批評は「自分の立ち位置」を見直す契機になるというようなことを書いているけれども、そのアイロニー的批評を仲正氏自身にも適用しているようにはあんまり見えない。自分を批判する人たちの知性を少なく見積もったような批判の仕方や、2ちゃんねるやブロガーたちへの「ワン君」がどうとか「パブロフの犬」だとかのレッテル貼りなどをみると、そう思う。
というか、仲正氏は「生き生き」批判だとか、「二項対立」批判だとか自分の態度を普遍化したり正当化したりしないで、単に私は左翼が嫌いだから批判するのだ、とでも言えばいいのに、とは思う。そうでもなければ、メディアリテラシーと言って自分の態度を中立的だと装いながら、批判するのは朝日新聞だけ、みたいなネット右翼とどう違うのか。
●北田暁大「嗤う日本の「ナショナリズム」」NHKブックス
![]() | 嗤う日本の「ナショナリズム」 北田 暁大著 日本放送出版協会 (2005.2) 通常1-3週間以内に発送します。bk1で詳細を見る |
この本の著者が上記の仲正氏と対談イベントを開いた後、ブログ上でかなり騒ぎになったのはある程度見たけれど、問題の八木秀次、小谷野敦、仲正昌樹の鼎談記事というのは読んでもいないので、よくわからない。
この本自体は、七十年代の連合赤軍事件の「総括」を起点として、ここ三十年間の「反省」の歴史を概観するというもので、著者によると八十年代論でもあるとのこと。しかし、私にはよくわからない。そもそも、出現する固有名詞のほとんどが私には縁がない。同世代的にはいろいろ思うところもある本なのだろうけれど。
この本は一種の2ちゃんねる論でもあって、2ちゃんでのやりとりなどに見える「右傾化」はアイロニー・ゲームのなかで偶然的に選択されたものでしかない、という感じの議論を展開していて、それは確かにそうなのだろう。時代が時代なら、2ちゃん的な場で「左傾化」が生じたかもしれないとはいえる。だから、「右傾化」を思想問題として論じることは意味がないというのは私も思う。
ただ、私はこの本での議論より、笙野頼子の近作での分析の方に説得力を感じる。笙野の「絶叫師タコグルメと百人の「普通」の男」や「だいにっほん、おんたこめいわく史」等で展開されているモチーフの一つは、「傷つきたくない男たち」とでも呼びうる男たちについての分析で、この分析は2ちゃんねるについても非常によく当てはまるものだと思う。
右翼的な言辞を弄する人たちというのは、思想としての保守などではなく、たんに自分たちが批判されるというのがいやなだけで、だからこそ戦争犯罪の数々を虚構なのだと主張したりするのではないか。朝鮮、韓国、中国などへの反感というのは、加害責任を問われるということそれ自体を、「被害」だと感じることから生まれたものでしかないのではないかと思う。笙野頼子が分析するのは、そういった、加害当事者でありながら、自分を被害者だと自称することで自分の行為を正当化するメンタリティでもある。
まともな紹介としては以下を参照。
梶ピエールのカリフォルニア日記。
http://d.hatena.ne.jp/kaikaji/20050331
http://d.hatena.ne.jp/kaikaji/20050410
吟遊旅人のつれづれ
http://blog.livedoor.jp/pipihime/archives/24789051.html
梶さんが、「2ちゃんねる的シニシズムによる「悪意あるツッコミ」は、一件脈絡がないようでありながら、「朝鮮人」「中国」「部落」「戦争責任」「フェミニズム」といった、80年代的なアイロニズムの雰囲気の元では「重過ぎる」として言及が避けられる傾向にあった「社会的弱者」あるいはそれをめぐる「学校民主主義的」言説への違和感」がある、と書いている。
「学校的民主主義」は措くとして、上に書いたように、「社会的弱者」への攻撃が激化するのはわりと単純にそれが自分たちを責める存在だからだろうと思う。もっと言えば、何かしらの異議申し立てそれ自体への嫌悪。申し立てる、というか、申し立てられることへの嫌悪、と言い換えた方がいいかもしれない。
左翼的な言説、というのは基本的に社会的弱者の救済という側面がある。そこで問われるのは普通の社会に暮らしている「われわれ」が、その日常のなかで何かの抑圧に荷担していないか、ということだ。しかし、たとえば戦争犯罪などに関して言えば、一国民として応答するという形での右翼的言説もあり得るはずなのに、そうではなく、犯罪事実そのものの抹消を志向するのが2ちゃんねるで、彼らは責任を問われたくない以上、右にしろ左にしろ、一貫した思想を持つ、というような主体的選択をするわけがない。そういう選択には責任がつきまとうのだから。
また、2ちゃんねらーが攻撃する話題から、彼らの自画像もまた見えてくる。彼らが攻撃するのは、自分たちに責任を問う自分たちでない人たちであるのだから、朝鮮人でも、在日でも、障害者でも、左翼でも、また右翼でもなく、女でもない、『「普通」の男』というのがちゃねらーの自画像なのだろう。
笙野頼子の分析というのはまったく妥当だというしかない。
●高原基彰「不安型ナショナリズムの時代」洋泉社新書y
![]() | 不安型ナショナリズムの時代 高原 基彰著 洋泉社 (2006.4) 通常24時間以内に発送します。bk1で詳細を見る |
日本の「右傾化」の構造的分析としてはもっとも説得力がある、かもしれない。この本での議論の主眼は、日本、中国、韓国における経済問題、あるいは雇用問題からくる、若年層の不安だ。
日本でもフリーター、ニートといった言葉で語られるように、雇用の流動化が激しくなっていて、会社主義の年功序列の安定した生活というものが幻想でしかなくなってきたことが言われている。正社員の数をどんどん減らしていき、流動雇用人口を増やすことは経済界の要請でもある。その中では個人個人が競争のただ中に放り込まれ、自分自身の能力によって糧を得なければならなくなる。
そのような状況下で、若者たちは先行き不透明感を持たざるを得ず、その不安感が、高度成長期の総中流の過去の日本というノスタルジックなナショナリズム的心情に回収されているというのが著者の分析。
その状況は日本だけにとどまらず、中国、韓国の経済事情にも触れているところが面白く、各国の若者をめぐる状況を、通俗的な若者論に陥らずに論じている。各国ともに、グローバル化などの影響もあって、雇用の流動化が非常に顕著に現れているという。本書の議論は、経済、雇用の側面からみた三国の歴史的状況のなかで、若者がどのような現実に立ち会っているのか、ということの分析で、ナショナリズム問題というのはいわば傍論としてある。
本書での、「右傾化」自体を批判するのではなく、若者が陥っている経済的苦境にこそ目を向けなければならないという見解には同意できる。しかしこの本では「右傾化」現象を若者のものと考えている節があるけれど、はたしてそれはどうか。
また、「右傾化」する若者たちは自己疎外に陥っているというようなことを著者は言っているけれど、それで思い出すのは、外国人による犯罪が増えている、と騒いで日本を外国人から守らなければならないというようなことを主張する人を見かけるけれど、安価な労働力を調達するという経済的な要請のうえに外国人が求められているのであって、もし「国益」という言葉を使うのなら、外国人排斥というのは明らかに政府やら経済界やらの「国益」に反する主張だなあ、と思うことがある。これがアイロニーってやつですかね。
2006年05月21日
死に過剰な意味を与えようとする「死の哲学」の批判のために――小泉義之「病いの哲学」 [ books ]
![]() | 病いの哲学 小泉 義之著 筑摩書房 (2006.4) 通常24時間以内に発送します。 bk1で詳細を見る |
●病いの哲学
「病いの哲学」といわれてもぴんとこないと思う。なので、著者が「病いの哲学」に対置している「死の哲学」の方から見てみる。
| 死に淫する哲学は、末期の病人のことを、死ぬこと以外になす術のない、死ぬしかない人間と決め付けている、治療不可能と宣告しさえすれば、善をなす他者の手によって死を与えること以外に、何も為すべきことも考えるべきこともないと決め付けている。だからこそ、死ぬことに意味を賦与したがる。 |
152P |
著者は「死の哲学」とは「死に淫する哲学」であり、死に過剰な意味づけを与えようとする哲学であるとする。ここで著者がとっているスタンスはきわめて明確だ。それはあらゆる場面での生の肯定、立岩真也風にいえば「生の無条件の肯定」ということになる。
「死の哲学」が死に過剰な意味づけをあたえるとき、そこで毀損されるのは生だということが肝要だろう。「死の哲学」は、生を高次元の生と低次元の生とに分割し、低次元の生を、尊厳ある死よりも下に置こうとする。病人の悲惨な生より、選ばれた安らかな死を称揚する。それが「死の哲学」であり、つまりこれは「尊厳死の哲学」でもある。
| 犠牲の構造は、死へ向かうこと、死なないで生きていることを無意味と決め付け、あっさりと、ある種の人間を死へと廃棄してしまう。その残酷な過程はさまざまな幻想や言動によって飾り立てられている。例えば、「死ぬ権利」「死ぬ自由」をとってみる。死ぬ権利に対比されているのは生きる権利ではなく、権利を喪失したと見なされる生、すなわち、ただの生、低次元の生、生き延びるに値しない生である。だから、死ぬ権利の行使を主張することは、必ずや、そんな生を死へと廃棄することを含意する。他方、死ぬ自由に対比されるのは、生きる自由なのではなく、自由を喪失した生を生かされる不自由である。だから、死ぬ自由を主張することは、不自由な生を死へと廃棄することを含意する。 |
152-153P |
しかしこれはおかしい。立岩氏だったか著者小泉氏だったか忘れたけれども、ある人はこう言っている。低次元の生、悲惨な生があったとき、それと対置されるべきなのは尊厳ある死ではなく、高次元の生であるはずだ、と。この言明は絶対的に正しいと私は思う。「死の哲学」は死に淫するあまり、生を死よりも劣等なものとする。そこでは生きることがむやみに低位におかれ、死を選択することを迫られる。
著者がこの本で論じているのは、そのような「死の哲学」の系譜をソクラテス、ハイデガー、レヴィナスらのなかに批判的に見いだす作業と、生を肯定する「病いの哲学」の系譜をパスカル、マルセル、ナンシー、パーソンズ、フーコーから取り出す作業だ。
基本的には本書は各哲学者らのテクストを読み込む作業にあてられていて、割合にむずかしい議論が続く。その部分をきちんと紹介する能力はないが、いくつかかなり興味深い論点が提示されている。そしてその根本には尊厳死批判、生の肯定があり、死に近づきつつある「病人の生」を生として肯定する試みはとても重要な意味を持っている。
本書は立岩真也の「ALS 不動の身体と息する機械」と基礎的な姿勢を同じくしているし、なんとなく文体も似ている気がする。こちらが哲学の側面からアプローチしているとすれば、立岩氏は個別具体的な病気、患者から、尊厳死に追い込まれる生を批判していこうとしているといえる。どちらも重要な仕事だと思う。
興味を引かれたところをいくつか。
●肉体の「奴隷」
冒頭におかれたソクラテスについて。ここで面白いのは、ソクラテスの魂についての議論だ。プラトンの「パイドン」から孫引き。
これに反して、思うに、魂が汚れたまま浄められずに肉体から解放される場合がある。というのも、そのような魂はいつも肉体と共にあり、肉体に仕え、これを愛し、肉体とその欲望や快楽によって魔法にかけられて、その結果、肉体的な姿をしたもの、すなわち、人が触ったり、見たり、飲んだり、食べたり、性の快楽のために用いたりするもの以外のなにものをも真実とは思わなくなるからである。……肉体との交わりと結合が、そのような魂の中に肉体的なものを自然的なものとして植えつけてしまったのだ。……そういう魂は、善い人々の魂ではけっしてなくて、卑しい人々の魂なのだ。 | ||
46-47 途中を適宜省略 |
これについて小泉義之は、「ソクラテスは、死期が迫ったその時に、まさに死にかけているその肉体の世話にひきずられることを忌避しているのである」と指摘する。これが「死の哲学」の一端だという。
しかし、このソクラテスの魂論は、なんとも不気味なものだ。肉体と霊魂の二元論にさらに善悪の対立を組み込んでいる。これが、低次元の生より尊厳ある死を善しとする思考の根にあるものだろうか。そういえば、今村仁司の「近代の労働観」の冒頭で、古代ギリシャ人は、手仕事を「メカニック」なものとし、それに従事することを恥ずかしいことであるとし、忌避していたということが紹介されている。自由人であるなら、そのような「メカニック」な仕事に決して手を染めてはならなかったらしい。その観念の背後には手仕事を一手に引き受けさせられる奴隷制度の存在が指摘されている。
精神が肉体の下位に置かれるということを忌避していた、ということだろうか。これが古代ギリシャの常識的な価値観ということかも知れない。
●共同体のための死を見いだすハイデッガー
小泉義之はハイデッガーの「存在と時間」から以下のようにハイデッガーの死生観を取り出す。
ハイデッガーは世代交代のことを、ライフ・サイクルの反復のことを、根源的な本来性と評価しているのである。そして、ここに飛躍があると言えば言えるわけだが、この幻想は政治的な共同幻想へと舞い上がっていく。
中略 こうして、共同体のために死ぬこと、これが死へと向かい死ぬことに意味を与える。裏から言えば、各種の共同体が、「善をなしてくれる他者」となって、どんな死に方であれ、末期の人間を安んじて死なせてくれるのである。だから、各種の共同体が、末期の人間を死なせても、それは殊更には他殺とは語られないし、末期の人間が自ら死ぬように導いても、それは殊更には自殺とは語られないだろう。共同体の名の下に、例えば、国家の名の下に、そして、家族の名の下に、人間を死なせることを覚悟して引き受けること、それが本来的な先駆的覚悟性である。したがって、ハイデッガーの哲学とは、「家族に見守られて死にたい」と「家族に見守られるなら死んでもかまわない」の間を埋めるものであるとも言える。こうして、ハイデッガーの哲学を安楽死に適用することができる。 | ||
93-96 |
死の意味を共同体に見いだすことで、共同体のための死も同時に見いだされている。この死と生のあいだの意味づけについては「弔いの哲学」で徹底して批判していたものだろう。「弔いの哲学」はむやみなまでにラディカルで、びっくりした本だった。常識を覆されることはわりと快楽なのだけれど、常識を覆されすぎるとびっくりする。「弔いの哲学」は生を共同体につなげようとしたりする議論を徹底して批判して、生と死の断絶を強調する。理解も納得もした気はしないのだけれど、非常に刺激的な本ではあった。
「病いの哲学」の後半部分、つまり病人の生を肯定し擁護する部分については、まだわかっていない部分が多いのでここには書かないけれども、「死の哲学」がいかなるものかをとりあえず取り出してみるだけでも、問題がどこにあるのかを知ることはできるということで、以上。
参考 小泉義之『病いの哲学』
2006年05月15日
女たちの楽園――J・G・バラード「楽園への疾走」 [ books ]
![]() | 楽園への疾走 J.G.バラード著 / 増田 まもる訳 東京創元社 (2006.4) 通常24時間以内に発送します。 bk1で詳細を見る |
バラードはたまに集大成というか自己模倣というか、それまで扱ってきた素材、テーマをリミックスした作品を書く。「夢幻会社」や「近未来の神話」、「奇跡の大河」がそうだし、この「楽園への疾走」もその系列といっていいだろう。バラードの趣味がよく出ている作品群で、私はこの系列の作品がわりに好きで、今作も結構楽しく読んだ。訳書の出版順と違うが、これ以降に書かれる「コカイン・ナイト」からの作品よりはずっと楽しめた。
この小説は、バラードの趣味がほんとによくわかる道具立てで、「夢幻会社」のような幻想はないけれど、閉鎖空間、南の島、プリミティブな暴力、核、メディア、といったモチーフがすぐさま見いだせる。具体的には「コンクリート・アイランド」と「終着の浜辺」と「コカイン・ナイト」と「夢幻会社」あたりのモチーフがミックスされたような具合だ。
物語は環境保護運動のために、フランスの原爆実験場に指定されたサン・エスプリ島へと赴く船に乗る三人を描くところから始まる。四十歳のイギリス人女性医師だったドクター・バーバラ・ラファティと、十六歳の少年ニール・デンプシー、そしてバーバラに島のことを教えた寡黙な男キモの三人が、その乗組員だ。
サン・エスプリ島にはアホウドリが住んでいて、核実験から彼らを守れ、というのがバーバラたちのスローガンだ。そして少年ニールが島に上陸したところでフランス兵に足を撃たれてしまうことで、事態は大きく展開する。ニールが環境保護運動のイコンと化すことでメディアからの大きな注目を浴び、運動が盛り上がり政府当局との衝突のさなかひとりの死者を出してしまうことで、核実験場としての指定をフランス政府に取り下げさせることに成功する。
こっから妙な展開が始まっていく。ドクター・バーバラはそもそも、環境保護運動に邁進する善人というよりは、奇妙なオブセッションに駆られたバラード作品おなじみの人物で、積極的な安楽死を何件も行なったことで医師資格を剥奪されたという経歴がある。そんな彼女がアホウドリの保護を求めて運動起こすという奇妙なねじれが、後半また生きてくる。それと同時に、そんな彼女に性的に惹かれているニール少年は、核実験場、あるいは原爆にオブセッションを持っていて(バラード作品はみなこんな感じ)、そういった動機も含めてバーバラについてくる。
そんな彼らは島が核実験から解放されるとともに、その島を希少動物たちの楽園にしようというメッセージを世界に送る。そこで、この島に世界中から希少動物が運ばれてくるのだけれど、バーバラの主張する生き物の楽園ができてからのブラックな展開はかなり楽しい。妄想が現実と交錯するうちに、だんだんと現実の方が浸食されていくあたりはバラード得意の展開だろう。最初の方でニールはこう考える。
| いつものように、ニールはこのエキセントリックな女性に惹かれていることを意識して、いかなる代償を払っても彼女を現実から守ってやろうと決意するのだった。 |
現実から守られるべきとされているのは、バーバラの不気味な妄想だ。彼女の妄想が島を支配し、狂わせていく。
以下、終盤の展開に触れているので気にする人は読まない方がいいです。
終盤、ユートピアめいた空間がだんだん狂ってくるのだけれど、そこで現われるのは訳者も指摘するように、女性原理的妄想の世界だ。「夢幻会社」ではその男性原理的妄想が批判されていたのだけれど、ここではそれをひっくり返している。バーバラはこう言っている。
| 最初に家畜化された動物はなんだと思う? 女よ! わたしたちはみずからを家畜化したの。でもわたしは女がもっと荒々しい素材で作られていることを知っているわ。わたしたちは意気と情熱と熱気を持っている。少なくとももっていたわ。わたしたちは残酷にも暴力的にもなることができる、それも男以上に。わたしたちは人殺しになることもできるのよ、ニール。わたしたちに用心しなさい、とても用心しなさい…… |
このセリフが暗示するとおり、この小説ではむしろ男こそが家畜化される。これを読むと、動物の群れにおいて、オスのボスが君臨してその周囲にメスたちが集まっているという状況は、実はメスたちの欲する子種の生産者としてオスが家畜化されているのではないか、と思わされる。男は女の望む限りにおいて生存を許容される峻厳なユートピア。
一種のフェミニズムSFともいえるけれど、それを主眼にしたと言うよりは、小説全体を覆うブラックユーモアというかアイロニーの帰結として導かれたもののように見える。環境保護運動で作られたはずの島に来た希少動物たちを食料としてむさぼり喰らう島民たちとか、どんどん男が殺されていってしまう悪夢的な展開とか、果ては男の精子を産む家畜扱いにいたる展開は、荒唐無稽なブラックユーモアとしてバラードは楽しげに書いているように感じられる。テーマを設定して気負って書いているような病理社会シリーズよりはいまのところこの作品の方が私は好きだし、楽しい。
そういえば、その三部作の最終篇「Millennium People」は新潮社ではなく東京創元社から今作と同訳者で出るらしい。まあ、テクノスケープ三部作だってそれぞれ出版社違ったりしているけど、新潮社はバラードから手を引くことにしたんだろうか。カンヌの売り上げの問題か、単に翻訳権の話か。
というか、ラファティって、SF作家のラファティ以外では聞かない名前だ。なぜこれが主役の名前なのか。ニールも、デンプシーっていうのは「デンプシーロール」で割と知られた名前だけど一般的ではない感じの名前。バラードの登場人物のネーミングって、すごい妙だ。聞いたことはあるんだけれど一般的ではなくて、それがここに来るのか、みたいな独特な感じがする。
ちなみに、下がカバーをはずした状態。こっちのほうが明らかに良い感じ。というか、カバーのデザインがたんに好きではないだけだけれど。

装幀は「岩郷重力+Wonder Workz。」
2006年05月10日
「普通」の男とは誰か――笙野頼子「絶叫師タコグルメと百人の「普通」の男」・2 [ books ]
![]() | 絶叫師タコグルメと百人の「普通」の男 笙野 頼子著 河出書房新社 (2006.4) 通常24時間以内に発送します。 bk1で詳細を見る |
| 私は知っている。最悪のこばと会よりも凶悪なもの、それはごく普通の善良な男性。 |
説教師カニバットと百人の危ない美女 |
カニバットからもう一度戻って、続篇の「絶叫師タコグルメと百人の「普通」の男」をざっと拾い読み。
作中での知感野労批判が一面的ではないか、という疑念を書いたけれど、その前に、作中での「知感野労」というのが具体的にどういうものなのかを見てみる必要がある。「知感野労」はイコール「オタク」ではないけれど、「オタク」的なものを含んでいることも確かで、では、どう関係しているのか、という問題がある。
「徹底抗戦! 文士の森」を読んだ人や笙野頼子の純文学論争を追っていた人ならわかるとおり、ここでタコグルメおよびそれに類する知感野労と批判されているものの原型は明らかに大塚英志だろう(もちろんそれ以外の連中も含むのだけれど)。戯画化され誇張されているし、あくまで笙野頼子による大塚英志観をカリカチュアライズしたものではある。そのせいか、「日本の知識人」的問題と「オタク」的問題とが一緒くたになっているという感じを私は持っていた。とはいっても笙野が見いだしたオタクと知識人とに通底するものがあるのも確かだ。
一般の「オタク」や「ロリヲタ」連中が国家権力を牛耳るという想定は現実的とは言い難い。むしろ、彼らの消費するポルノグラフィはいまや表現規制の対象になりかねないという状況もある。まあ、それは国がオタク産業を国策化しようという動きと連動しているかららしいのだけれど。雑多な文化世界から無害なものと有害なものとに区別して無害なもののみを称揚する動きがあり、たとえば秋葉原の都市計画は明らかにそれを映し出している。
現実的ではないとはいったが、近作で笙野が描き出す国家権力化したオタクという設定にはけっこうリアリティがあるようにも思う。ひとつにははむしろ権力論との関係で、酒井隆史らがいうように、権力とは常に自身をアンチ暴力の側に置こうとするということとかかわる。知感野労やおんたこの作った国家が、つねに反権力を標榜することときわめて相似の状況だ。
笙野の描き出す国家ではなぜつねに反権力を標榜するのか。そして、それを支える「普通」の男とはどんな人間なのかという問題がある。ここにリアリティが兆している。たとえばThornさんが「おんたこめいわく史」評でこう書いている。
| だから本来批判されるべきは、大塚英志・柄谷行人・小泉純一郎などの文化人知識人為政者の類ではなく、彼らを暗に支えているもの、例えば「やはりメイド喫茶はもはや日本の文化ですね。サブカルこそがこの国の華。儲けるためには萌えですよ、萌え!」などと、被害者意識を装いつつも何の躊躇いもなく口にしてしまい体制翼賛に乗っかかる、名もなき無数のイデオローグたちの拗けた性根なのであろう。 |
この指摘は妥当だろう。笙野頼子は「タコグルメ」の作中でネット内キャラクタ山墓二円という男を設定し、こう描いている。
| どうせパソコン内の存在なのだから、顔もIQも素晴らしくし、サキソフォンはマイケル・ブレッカー並みの腕前とでも単に設定しておけば良さそうなものだが、しかしそれが出来ない事情というのはいかにもこの国らしい。というのも二円とはこの国の「普通」の男を表徴しているからだ。てっとりばやく言えば、何の取り柄もないのに受け身のままで、つまりいっさい自発的欲望を表現せぬままに特別な存在となり、ガールフレンドをとっかえひっかえし、痩せ型キレイ系の彼女と恋愛をしておいて、その後母性的美少女と結婚したい、というような、要はきつい性妄想だけを持っている「普通」の男の代表であるからなのだ。そのため本人は何もかも低レベル、一方、周囲の女性は低年齢がよりどりみどりなのに全員くっきりした二重瞼、ブリブリ、令嬢ばっかりなどという非現実的設定の中で何もかもを進行しなければならないという無理が生じてきているのである。 中略 そういうわけで、この国の「普通」の男達が二円に同化するというか自己を投影してうっとりするために、二円にうかつな長所や特技を持たせてはならないという縛りが掛かっていた。というのも知感野労達はとても傷付きやすく、例えば文学が一行も読めない知感野労が、作家全員に「死んで貰いたい」などと言うのは無論の事、プロの音楽家や、サッカーの選手等はその存在を想像するだけでも「普通」の男達にとってはトラウマになるのだった。 中略 二円は受け身の癖にプライドが高く、自分より小さい子供が自発的に戦って命を捨ててくれないと嫌なばかりか、彼女らが自分より強い敵を倒して、つまり二円より強い女の子になってしまう事にも我慢ならないからだ。なんでも負担に感じるヤツなのである。その上二円は相手に負担を感じると速攻で死んで欲しくなるという「普通」のタイプに設定されていた。 中略 この二円をとことん保護することがこの知感野労共の国是なのであった。 中略 彼らが二円をカッコ悪い設定にしておくのは、決して現実的で覚めた性格だからではない。僻みに僻んだ自分というものを保持したまま、ひたすら都合のいい妄想の世界に突入したいというだけの事なのである。 |
99-101 |
笙野がとりだす「普通」の男とは、一言で言えば「傷つきたくない男」のことだ。傷つきたくないというのは、この場合ダブルスタンダードの自分だけは傷つきたくないという意味で、まわりの人間が自分のために傷つくのはかまわない、という人間のことを指している。笙野頼子が「知感野労」や「おんたこ」という名で指し示そうとしたものの一端は、知識人だろうがオタクだろうがその他大勢だろうが差異はないこの性格類型そのものだろう。
上記の引用文はほとんどギャルゲー、エロゲー(本文中にも出てくるんだけど、笙野頼子はエロゲーをやったんだろうか)のたぐいを指しているようにしか読めず、無批判にそれを消費するオタク達をも批判している。だから、大塚英志がタコグルメのモデルだろうとは思うが、もうひとり、笙野が敵視しているものを体現しているのは「電波男」本田透だと思う。笙野頼子が本田透を知っているのか、本を読んだのかどうかはわからないが、笙野の批判する対象とかなり似ていることは確かだ。
「電波男」関連の本田透の、恋愛資本主義批判にはそれなりに説得力もあるし、被差別階級「オタク」「キモメン」からの反抗としては肯定できる部分、価値のある部分もないではないけれど、やはり同意できない部分が多すぎる。本を貸しっぱなしにしているので、本文を当たれないので粗雑な議論になってしまうけれど、一言で批判すると、本田透の掲げる恋愛至上主義が、その内実は私を全面的に受け入れよ、という要求にしか見えないところが挙げられる。
本田透は女性を自分を全面的に受け入れ、癒してくれる存在としか見ていないのではないかと思ってしまう。傷つきやすく、弱い僕を受け入れてよ、と主張するだけで、ではあなたは相手の女性を全面的に受け入れることができるのか、と問わずにはいられない。だから本田透は自分を受け入れてよ、と主張することのない二次元の恋愛に没頭するのだろうけれど、この思考それ自体が非常に一方的、いってしまえば差別的なものを含んでいる。本田透がときに保守反動的な性道徳と野合してしまうのはそのせいだ(他人の意見で申し訳ないけれど、ここ等参照トラックバック先も見ておくといいです)。
本田透がしばしば、オタク文化は経済も潤すし、「萌え」は世界を救う的なことを夜郎自大に語っているのに対し、正面から「んなわけねーよ、けーっ」とボコボコにしてしまうというのがまあ「タコグルメ」だといっても差し支えない(かも知れない)。(参考、(O^〜^)さんのレス)
自らが醜貌であると宣言し、その自己をサラしていくという戦略面でみれば、笙野頼子と本田透は同じスタートラインに立っていたとは言えるかも知れない。しかし、その後二人は正反対の方向に駆け抜けていった。
笙野は近作で「傷つきたくない男」たちが権力と野合したときに現われる脅威を書き続けているのだろう。その脅威とは、男が決して傷つかないことを制度的に構築した世界はいかなるものか、という実体験にして思考実験であり、「私」を隠蔽しようとする構造の歴史的経緯の探索でもある。
で、笙野は繰り返し宗教小説を書こうとしている、と述べている。そしてことは律令制の時代にまでさかのぼるというのなら、やはり天皇は避けて通れない問題のはずだ。「古事記」に出てくる各天皇は、それぞれカムヤマトイレビコノミコト(神武)などの名で呼ばれ、当時は天皇という称号では呼ばれておらず、日本という国号もまた律令制の時代に制定されたものだという。律令国家の時代というのはつまりいまの形の日本の原型でもあるわけで、そこまでを射程に入れようと言うのなら、はずせない問題だと思われる。
というより、「傷つきたくない男」がこちらにいるとして、もう片方には無限に責任を阻却された、決して「傷つかない男」たる天皇が位置するのではないか。Panzaさんに言われて思い出したけれど、一ページ目から「さるところ」(たぶん皇居)が出てきたりするわけで、そこらへんの文脈を意識はしているのだろう。と、なんとオタクと天皇が同じ俎板の上に乗ってしまう訳だけれど、こうなってくるとまるでトンデモ文芸批評をやっている気分になってくる。
知感野労批判が一面的、ということに関してはまだよく考えがまとまらないけれど、作中で八百木千本の命が助かるのは、ウラミズモの資源と八百木千本が交換されたからで、このことはきわめて重要だ。なぜなら、ウラミズモの「資源」とは「水晶内制度」を読んだ人ならご存じの通り、精密な少女の身体データだからだ。いわばウラミズモと知感野労との共犯関係のなかに八百木千本は巻き込まれている。同時に、ウラミズモも知感野労の国も両極端であって、なおかつ双方が微妙な共犯関係を築くことで成立しているという奇怪な状況は、やはり一面的と言って済まされない複雑さを含んでいることは確かだ。
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